中田裕一
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- 【路面電車】たった半年で消えた橋の物語(1) - 2026年4月10日
“君はまだ十日市を知らない”の読者の皆さま、ご無沙汰しております。
5年ぶりに戻ってきました。宮島線歴史たずね人の中田裕一です。
えっ?誰っ? 聞いたことないよ!
はい、それもそのはずです。前は別の名前で書いていました。
5年前に路面電車を考える会として、6本ほど記事を書かせていただいたのが私です。
https://tokaichi.com/author/thinktram/
君はまだ十日市を知らないの読者の力を借りたくて、5年ぶりに記事を書かせてくださいってお願いしました。
そしたら秒で、いいですよってお返事。
ありがとうございます。
さて、読者の力を借りたい事とは何かというと、横川新橋の謎なんです。
えっ横川新橋?
十日市じゃないじゃん・・。

2025年8月9日 被爆3日後の奇跡の復旧を記念して、被爆電車の156号が横川新橋を走りました。
大丈夫です、5年前に記事を書くことが決まった時に、エリアはここですっていただいたマップ。

ほら、横川新橋もちゃんと入ってます!
なので、胸を張って横川新橋と、そこを走る横川線について書きます!
横川新橋の謎というのは・・・。
実はワタクシ、この5年間に本を2冊書きました。
どちらも南々社という広島の出版社からで、
『広電宮島線 もっと魅力発見!』
『だから路面電車は生き返った』
の2冊です。

『広電宮島線 もっと魅力発見!』は、沿線に残る開業時の痕跡と大正時代の資料を使って、100周年を迎える宮島線が花と果実に囲まれたシーサイドラインだったことを書いた本。
そして『だから路面電車は生き返った』は、昭和20年に広島電鉄の電気課長だった松浦明孝さんが詳細に記された業務日誌を読み解き、原子爆弾で壊滅した広島で奇跡的に復旧した路面電車と、その過程にあった人々の知られざる貢献を明らかにしました。
謎とは、松浦電気課長の日誌に書かれた横川新橋に関する記述のことです。
横川新橋が、路面電車の別院前電停と横川一丁目電停の間にある、天満川に架かる橋ということは、皆さまご存知だと思います。
ざっくりとした説明にはなりますが、横川新橋について。
路面電車の横川線が開通した時、天満川は専用の鉄橋(単線)で渡っていました。昭和10年に都市計画街路として周辺の道路(現在の国道183号線)が整備されるのに合わせて、電車専用の鉄橋は道路併用の橋として新たに架けられました。それが横川新橋です。
(この時、橋の上だけは将来のために複線になっていたが、横川線自体は単線。複線化されたのは昭和13年12月10日)
原爆の衝撃波や爆風で道路部分には穴が空き、ちょうど橋の上を運行していた横川行きの路面電車は立ち往生。それでも落橋することなく多くの被爆者が橋を渡って逃げることができました。しかし被爆の翌月、9月17日に広島を襲った枕崎台風では、ついに落橋し流失しました。橋の上にいた路面電車も天満川に流されてしまいます。
広島平和記念資料館が1996年に発行した『ヒロシマの被爆建造物は語る 被爆50周年 未来への記録』にも、原爆に耐えた建造物として紹介されています。
被爆体験記にも、この橋を渡って避難した方の話がいくつも見つかります。
これが間違いであることがわかったのです。
橋は原爆に耐えたどころか、原爆の2年も前に失われていたのです。
その理由は・・・。
この続きは、次回をお楽しみに・・。
なんて、テレビ局のやるような事はしません。
だって、公式記録に異を唱える者として、もたもたしていたら抹殺されちゃいます。
闇から闇へと、無かったことに(゜o゜)\(-_-)
(久々に顔文字使っちゃった)
5年ぶりに記事を書かせてもらえるから、ちょっとふざけすぎました。
電気課長だった松浦さんの日誌には、昭和20年の1月から3月まで、横川新橋に路面電車を走らせるための工事を行った記述がいくつも書かれています。
そして3月7日の日誌には「横川橋開通式挙行列席ス」と書かれているのです。
松浦さんは業務日誌のほかに、個人的な手帳も残しており、その手帳にも3月7日には「今日ハ横川橋ノ渡リ初メデ市カラ招待ヲ受ケル無事開通シテ安心シタ.午后ハ新線ノ初乗リヲヤツタ.」と書かれています。

松浦日誌を繰り返し読んで、その記述が正確であることはよくわかっています。
(横川橋と書かれているが、架線柱や線路溶接工事の記述から横川新橋のことだとわかる)
だから横川新橋の開通式が行われたのは間違いありません。
戦争の真っ只だった昭和18年。
その頃の新聞を読んでも、情報統制が行われているために、天気予報や水害の記述は見当たりません。しかし気象台は観測を続けており、7月24日に洪水(台風)死者46、傷者32、家屋全潰157、半潰175、床上浸水1,846、流失15、橋梁流失126、道路損壊577、堤防決壊283、田畑流失185町、浸水6,192町歩(総降水量177.8粍)と、大きな災害があったことが記録されています。橋梁流失が126橋あった中のひとつが、横川新橋だったということです。
つまり昭和18年7月から昭和20年3月までの約1年8か月間も橋がなかったので、再架橋した3月7日に広島市主催の開通式が行われたのです。橋を失っていた期間、路面電車は横川駅前からではなく、別院前からの運行だったと思われます。別院前電停と横川駅は、アーチ橋の横川橋を通る徒歩接続だったのでしょう。不便であったと思われますが、なぜか昭和18年7月の水害による流失が、横川新橋の歴史からは欠落しているのです。
整理しましょう。
昭和20年3月7日に開通した橋は、その年の9月17日に失われました。
たった半年、たった半年しかなかった橋。
でもその橋があったから、多くの被爆者が橋を渡り避難できたのです。
もちろんアーチ橋の横川橋も無事にありました。しかし、被爆者の体験記には「被爆直後の横川橋はトラックが横転して炎上していたため渡ることができなかった。だから隣の電車の橋を渡って逃げた」という記述もあるのです。
たった半年しかなかったけれど、橋があったから多くの人々が避難できた。
そんな橋が、記録上は存在しなかった事になっているのです。
それはなぜ?
私は、寺町や横川地区のさまざまな場所や出会う人々に、それこそ片っ端から尋ねてまわりました。
82年前からの2年間、橋がないので路面電車も来ない。きっと不便だったはずです。90歳以上の方なら「おぅ、あの時は・・・」と話していただける方がいるはずだ。
しかし、ひとりもいません。枕崎台風で橋が失われたことを覚えている方はいらっしゃいます。しかし、その前の出来事は誰も知りません。
原爆の記憶が強烈で、その前の出来事は消えているのです。
私は、被爆前の出来事を調べています。
何か情報をお持ちの方、聞いたことがあるよという方、なんでも構わないので聞かせてください。
たった半年しかなかったけれど、頑張った横川新橋のこと。
広く知っていただきたいし、もっと知りたいことがある。
だから、君はまだ十日市を知らないに書かせていただきました。
そして、横川新橋や横川線のお話は、まだまだ続きます。
君はまだ横川新橋や横川線の真実を知らない。

1945年7月25日米軍撮影 国土地理院空中写真閲覧サービスより
たった半年だけあった横川新橋の写真は、アメリカ軍が上空から撮影したものしか見つかっていません。
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