【路面電車】たった半年で消えた橋の物語(4)

路面電車
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中田裕一

宮島線歴史たずね人の中田裕一です。 広島電鉄宮島線の歴史や沿線地域の様々を書いた 「広電宮島線 もっと魅力発見!」(2024年南々社) と、被爆して壊滅した路面電車の復旧の真実を書いた 「だから路面電車は生き返った」(2025年南々社) の作者です。 元電車運転士であり、元路面電車を考える会会員です。 路面電車黎明期の歴史や地域公共交通の課題に取り組んでいます。

初回に横川新橋の真実について書きました。

原爆を経験したのは昭和10年に架けられた橋ではなく、実は昭和20年3月7日に開通式を行った橋だったこと。そして、たった半年で失われたけれど、被爆者の脱出に貢献した橋だったと。

 

その橋の知られざる物語。

 

原爆投下後にアメリカ軍が上空から撮影した写真が、国土地理院のホームページで閲覧できます。

被爆5日後の1945(昭和20)年8月11日にアメリカ軍によって撮影された空中写真 (USAー5M223ー9304)「国土地理院の空中写真」より

写真の最上部にアーチ橋の横川橋と、横川新橋が写っています。

拡大したものがこちらです。

被爆5日後の1945(昭和20)年8月11日にアメリカ軍によって撮影された空中写真 (USAー5M223ー9304)の一部を拡大 「国土地理院の空中写真」より

橋の下を流れる天満川には、何かが浮かんでいるように見えますが、ここは「横川」の名の通り、川が横に流れる場所。流れによどみのある場所です。貯木場の木材かもしれませんし、水を求めて川に入った人々なのかもしれません。

被爆5日後の1945(昭和20)年8月11日にアメリカ軍によって撮影された空中写真 (USAー5M223ー9304)の一部に加筆 「国土地理院の空中写真」より

横川新橋の上をよく見ると、路面電車が止まっています。これは横川方面に向かう459号(赤矢印)です。そして、橋の南側にも電車が見えます。この電車は十日市方向に進んでいた158号(黄矢印)であることが判明しています。

月曜日の朝8時15分です。どちらの電車も満員でした。

被爆の瞬間、衝撃波と爆風に襲われて、相生橋横の櫓下変電所は倒壊し、千田変電所は屋根が崩れ、心臓部の整流器には割れたガラスが突き刺さり、回路はズタズタに切り裂かれました。架線は切れ、架線柱は倒壊します。

走行中だった電車はどうなったのでしょう。

現在の電車には、「デッドマン装置」が備わっており、運転士が倒れたらブレーキがかかります。

でも、当時の電車にはありません。

運転士もとっさにブレーキをかけるでしょうが、その当時の電車で圧縮空気を使ったブレーキを搭載していた電車は650形など、わずかしかありませんでした。

650形は、今も被爆電車として平和を祈りながら広島市内を走っている、あの電車です。

旧猿猴橋町電停付近に残る「被爆ポンプ」前を走る651号。651号は中電前付近で被爆し脱線し半焼。 撮影:kenbo

他の電車は全て「手ブレーキ」です。

運転士がブレーキハンドルをぐるぐる回して、腕力でブレーキをかけます。

被爆の瞬間に、それができた電車は何両あったのでしょうか。

気を失いつつ、とっさにブレーキハンドルを回したとしても、すぐには止まらなかったでしょう。

運転士が瞬間的に倒れ、惰力で走り続けた電車もありました。

電車から飛び降りたら、乗っていた電車は車体全体が白光に包まれ、燃えながら走り続けていたという証言も残っています。

 

では459号と158号はどうだったのでしょうか。

459号は別院前電停を発車し、加速しながら横川駅方向に進みます。

現在は増水や高潮対策として堤防は嵩上げされ、橋に向けて上り勾配ですが、当時はもっと緩やかな勾配でした。緩やかとは言っても上り勾配ですし、当時の電車は4ノッチ(通常は8ノッチまであるが、女学生運転士のために速度が出ないようロックしてあった)までしか進段できないので、おそらく時速15km程度だったと思われます。横川新橋に差しかかったあたりで原爆が炸裂しました。運転士が吹き飛ばされたという証言も残っていますが、電車は惰力で走り続けるのではなく、すぐに停車しました。その理由は後に示します。

一方の158号は、ちょうど別院前電停に停車中でした。爆心地から1150mほどですが、寺院の大きな建物の影になっていたのか、車体は窓ガラスが割れたものの大きく破壊される事なく脱線や炎上も無かったようです。前述のように手ブレーキの電車は、ハンドルを回して運転士の腕力でブレーキをかけます。ブレーキを緩めるためには、ハンドルを逆に回せばいいように思われますが、ハンドルを逆に回すには足元の爪状のロックを外さなければなりません。圧縮空気を使ったブレーキは、電源が失われるとコンプレッサーが動かなくなり、次第に圧力が下がりブレーキが緩んでしまいます。もし止まっていたのが勾配だったら、ゴロゴロと動き出してしまいます。それに対し、旧式の手ブレーキは足元のロックを外さない限り、ブレーキはかかったままです。緩やかな勾配だったと思われる別院前電停ですが、電車は転がることなく止まっていました。

 

2016(平成28)年、アメリカのシンクタンク「Stimson Center(スティムソン・センター)」から、原爆投下後に撮影された航空写真が平和記念資料館に寄贈されました。その中の一枚をご覧ください。

STIMSON009 Stimson Center寄贈 広島平和記念資料館提供

一般的な航空写真は上空から真下を撮影するようですが、この写真は斜めに俯瞰するようなアングルで撮られています。写真の手前が北で、奥が南方向となっており、真ん中あたりに相生橋が写っています。

 

写真の手前にご注目。横川新橋と横川橋が見えますね。

私はこの写真を見たときに、強い違和感を感じました。

「横川新橋の上に、電車が2両いる!」

拡大してみると、影もクッキリ。少しずれて、2両が並んでいる。

STIMSON009 Stimson Center寄贈 広島平和記念資料館提供写真の一部を拡大

なんで2両いるの?

459号だけのはずなのに。

9月17日の枕崎台風で、橋もろとも天満川に流されたのは1両だけのはずなのに、なぜ2両?

並んで見えるのは眼の錯覚?

それとも、トラックのような別の大きな乗り物?

そして気が付きます。いない!158号がいない。

別院前電停に停まっているはずの158号がいない!

という事は、459号の横に並んでいるのは158号です。

誰かが158号を横川新橋の上に移動させたのです。

 

それはなぜ?それは誰が?

 

その理由は定かではありませんが、推測することはできます。

路面電車と道路の併用橋だった横川新橋は、戦時中の資材難により、そのほとんどを木で造られた木橋でした。電車内被爆者の証言(広島電鉄電車内被爆者のつどい係・1985年)に、459号に乗っていた方の証言が残されています。横川新橋の上に止まった電車から飛び降りたら、道路に穴が空いていたようで

ずんずんと、身体が落下して行く。橋があるはずなのにと思ううちに水の中へ沈んだ。

と書かれています。

 

被爆者が描かれた絵にも、横川新橋の電車の横に大きな穴が描かれています。

GE14-49 電車と川と人々と 石井 玲 広島平和記念資料館所蔵

注・この絵は被爆から30年近く経って描かれたため、複線ではなく単線で描かれていたり、電車も昭和50年頃の電車に似た絵となっています。

道路部分には穴が空き、中央の軌道部分には電車が止まっています。

人々は、何とか橋を渡ることができても、これでは自動車は通れません。

猛火がすべてを焼き尽くし、焼け野原となった広島には復旧のため、各地から応援が駆けつけています。しかし、多くの橋が被害を受けており、北部から広島市内に入るには、アーチ橋の横川橋を渡るしかありません。被爆直後から、軍隊は復旧作業の邪魔になる瓦礫を撤去して通行を確保するため、道路啓開を行いました。通行量が増えたとき、横川橋につながる道路と158号は微妙な位置関係にも見えます。

被爆5日後の1945(昭和20)年8月11日にアメリカ軍によって撮影された空中写真 (USAー5M223ー9304)の一部を加筆 「国土地理院の空中写真」より

動けない158号は邪魔だったのではないでしょうか。(赤線で示したのが横川橋への接続路)

別院前電停に止まっている電車が邪魔だからと移動させても、電停のホームや柵はどうしたのでしょう。邪魔にはならなかったのでしょうか?

邪魔にはなりませんでした。別院前電停は、現在の小網町電停と同じ平面電停だったのです。電車さえ移動させれば、車の通行に支障はありません。158号は10トンありますが、レールの上に乗っていれば人力で動かすことができます。現在、市内線で走っている3車体の超低床電車グリーンムーバーレックスは24トンですが、新車として搬入された際には車庫の人たちが数人で建屋内まで押して移動させます。被爆後、壊れたまま本線路上に止まっていた電車を、たった一人で車庫まで引っ張ってきたという話も伝わっています。レールの上にさえ乗っていれば、電車は簡単に動かせるのです。

 

別院前電停の近くで、通行の邪魔にならない場所。それが横川新橋の上だったのでしょう。

橋の上まで移動させていた時に、上空から撮影されたのが先ほどの写真ということになるのです。

 

ではなぜ、枕崎台風で横川新橋と一緒に流されたのは459号だけだったのでしょうか。

実は記録に間違いがあって、158号も流されていた?なんてことはありません。

158号は、昭和21年1月には修理されて走り始めているのです。

 

答えは、広島電鉄の社内報にありました。1963年の社内報には次のように書かれています。

九月の台風のとき横川橋が流れ、四五九号の電車を流しました。部長から、橋上にある電車を動かすよう命ぜられたのですが、枕木などが床にささり、なかなか動きそうになく、橋は今にも流れそうなので「電車も人の命にはかえられん」といって作業をせずにもどりました。

459号が被爆直後に橋の上ですぐに止まったのは、枕木が床に刺さったからで、その枕木のために動かせなかったのです。このとき158号は、橋のすぐ横まで移動させたので、助かったのです。

 

横川新橋が流失した後の写真が平和記念資料館に保管されており、川のすぐ横に158号が写っています。

NARA15-024 米軍撮影 米国国立公文書館所蔵

158号のあたりを拡大してみると

NARA15-024 米軍撮影 米国国立公文書館所蔵写真の一部を拡大

橋は流されてしまいましたが、158号は助かりました。川のすぐ横に移動しています。

枕崎台風による暴風が吹き荒れるなか、今まさに崩れ落ちようとする橋から奇跡的に救い出された158号は、台風から4か月後に修理を終えて復帰しました。

橋に残された459号。

その459号を目撃した方がいます。金古昌克さんです。

金古さんは鉄道模型を自作される方で、広島電鉄の社長室にも金古さんの模型が置かれているというすごい方です。

幼いころから、模型作りのために観察眼が鍛えられており、「459号は橋の下流に横倒しになっており、窓枠に塗られた山吹色と、窓枠下の青く塗装されたボディがキラキラ光る水面と同じように鮮やかだった」と思い出しながら話していただけました。

 

たった半年で失われた横川新橋。

横川線は昭和20年12月26日、十日市から別院前までが復旧し、それからさらに3年後の昭和23年12月18日に別院前から横川までが復旧します。その時の橋は道路併用橋ではなく、電車専用橋でした。再び横川新橋が併用橋となり、車の通行が可能になるのは被爆から13年近く経過した、昭和33年4月18日の横川新橋完成(現在の橋です)まで待たされることとなります。

 

横川新橋の工事中、路面電車は仮設の橋を架けて迂回して運行しました。その仮設橋は単線に見える細い橋でしたが、レールは4本並んで敷かれており、ガントレットと呼ばれる単複線方式です。

つい先日、横川新橋を渡っていると水量が少なかったため、橋の下流側に仮設橋の基礎ではないかと思われる構造物が見えました。川が横に流れてよどみのある場所。ひょっとしたら、たった半年で失われた橋の一部も、まだそこに眠っているのかもしれません。

これが横川新橋の知られざる物語です。

 

ここに昭和37年1月10日に撮影された写真があります。

撮影:窪田正實

右奥に広島駅が見えます。「直通廿日市ゆき㐧一便」の大きなヘッドマークときらびやかなモールで飾られた電車に目が行ってしまいますが、左奥の電車の車号を見てください。

459と書かれています。

あの、横川新橋とともに天満川に流された459号です。

広島電鉄の社員は、流された459号を川から救い出し、修理しました。

459号は昭和23年8月に修理を終えて、再び広島を走り始めたのです。

 

被爆3日後の運行が注目されますが、人類初の核兵器と広島県で最大の被害をもたらした枕崎台風により徹底的に破壊された広島で、人々は懸命にそれぞれの責務を果たし、そして多くの奇跡を起こしていたのです。
その奇跡の多くは、誰の目に留まることもなく歴史の中に消えて行きます。

私たちは、その奇跡を少しでものちの人々に伝えていかなければなりません。

 

それは広島で暮らすものの使命でもあるのです。

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中田裕一

宮島線歴史たずね人の中田裕一です。 広島電鉄宮島線の歴史や沿線地域の様々を書いた 「広電宮島線 もっと魅力発見!」(2024年南々社) と、被爆して壊滅した路面電車の復旧の真実を書いた 「だから路面電車は生き返った」(2025年南々社) の作者です。 元電車運転士であり、元路面電車を考える会会員です。 路面電車黎明期の歴史や地域公共交通の課題に取り組んでいます。
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