【路面電車】たった半年で消えた橋の物語(3)

路面電車
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中田裕一

宮島線歴史たずね人の中田裕一です。 広島電鉄宮島線の歴史や沿線地域の様々を書いた 「広電宮島線 もっと魅力発見!」(2024年南々社) と、被爆して壊滅した路面電車の復旧の真実を書いた 「だから路面電車は生き返った」(2025年南々社) の作者です。 元電車運転士であり、元路面電車を考える会会員です。 路面電車黎明期の歴史や地域公共交通の課題に取り組んでいます。

今回は十日市のことを・・・。

前回では、路面電車の横川線が三篠電停まであったと書きました。

 

その横川線は、左官町(現在の本川町)電停から三篠電停まで、全区間が単線として開業しました。単線なので、途中に行き違いする場所が必要です。4か所あったと言われる行き違い箇所ですが、その位置はまだ2カ所しかわかっていません。残りの2カ所はどこなのか気になりますが、それは今回のテーマではありません。
(注・この原稿を書き始めたころは不明だった行き違い箇所ですが、すべて判明しました。)

 

横川線がなぜ単線で開業したのか?

その理由がわかると、十日市や横川という町を知ることができるのです。

 

広島の路面電車は、基本的に複線で開業します。宮島線も最初から複線です。

例外は2つ。御幸橋東詰から宇品に向かっていた堤防下線と呼ばれる区間と、横川線だけです。

御幸橋東詰からの堤防下線は、明治時代にたった一週間だけ運行したとされる軽便鉄道の線路跡に敷かれました。

(その軽便鉄道は機関車のボイラーが爆発して廃止になったのだとか)

 

軽便鉄道の線路跡を使ったことや、宇品通り(現在の宇品線が通る道)の整備も計画されており、移設される事が決まっていたことから、堤防下線は移設を前提とした暫定的な開業でした。

堤防下を通る線路は1935(昭和10)年12月に役割を終えたが、その線路跡を示す空間は今も残されている。

注・当時の御幸橋は木橋で、線路を敷くことができなかったため、乗客は徒歩で橋を渡って乗り換えていた。

 

単線で開業した線路も、宇品通りが整備され昭和10年12月27日に移設された際には、複線になっています。

 

一方、暫定的な開業ではなかった横川線は、なぜ単線だったのでしょうか。

 

広島に路面電車が開業したのは大正元年です。

明治時代の終わり頃、広島に路面電車を作ることが決まった時には、どこに線路を敷くのか、どのようなルートが良いのか、広島の将来を想像しながら考えたことだと思います。

路面電車を走らせるためには、線路を敷く用地の確保とともに乗客の見込める場所を選ばなければなりません。

駅前大橋ルートの開業によって廃止された猿猴橋町を通る区間も、当時としては西国街道沿いの賑わっていた場所を選んだという、当たり前の選択なのです。

八丁堀や紙屋町を通る線路は、広島城の外堀を埋め立てて敷設されましたし、紙屋町から南に向かう宇品線は西塔川(せいとうがわ)を埋め立てて敷設されました。(本通りから鷹野橋まで真っ直ぐなのは川を埋め立てたから)つまり、立ち退き補償がないので建設費を安くできます。

相生橋を渡った先の左官町(現在の本川町)からは、十日市ではなく堺町を回って土橋に向けて線路が敷かれます。それは、当時の堺町が繁華街であったことや、商業の中心地として多くの商家や問屋とともに旅館も多く、さらに市場があったことも関係しています。線路を敷くために建物の立ち退きや移設などのコストがかかっても、乗客が見込める区間です。土橋や小網町も西国街道に沿っているため賑わっていますし、いわゆる花街です。

Social Book Cafe ハチドリ舎のある交差点付近に、堺町停留所がありました。

生成AIさんに線路を描いてもらいましたが、実際はもっと急カーブで、何度も脱線があったとか…。

 

堺町電停から本川橋を渡ったすぐ先の中島本町は、当時の広島最大の繁華街でしたから、堺町を通ることは当然というか必然。

 

建設コストを安く抑える区間と、乗客の見込める区間を巧く選んだ結果が、開業時の路面電車のルートなのです。

先日、広島電鉄が電停の統廃合を検討しているとのニュースがありました。広電唯一の平面電停である小網町も廃止の対象なのだそうです。

小網町電停のことは別記事(路面電車とチャンジャ)でも触れていますので、そちらをお読みいただけたらと思いますが、対比写真も載せちゃいます。

小網町にはボウリング場もありました。(昭和42年3月11日 長船友則氏撮影)

広電天満橋は、何度も落橋を繰り返したが1969年に現在の橋になった。

さて本題ですが、十日市はというと物流の動脈という側面を持った雲石街道と、人流が盛んな西国街道が出会う、広島でもにぎやかで栄えた場所。

路面電車を走らせようとしても、左官町から横川までどのルートを通っても人家や商店と社寺がぎっしりと建っています。そのため、用地確保が高コストになってしまいます。さらに、第一次世界大戦後の不況の影響で電鉄会社としても、経費削減に取り組まなければならない時代でもありました。経費を抑えたい一方で、山陽本線と可部線の結節点であり、舟運の中継地で貯木場もある横川に路面電車の線路を延ばすことは重要です。そのため、当初は複線として申請していた横川線を、単線として再申請します。

 

その頃の横川線を思い浮かばせてくれる文章が、いくつか見つかりました。

 

「単線の区間も、専用軌道のところも多々あり、舗装していない区間は、寺町から横川間、小網町から己斐までと、御幸橋から宇品の間である。特に横川線と宇品線は単線区間で、途中で上下する電車が離合するため、蛇が蛙をのみこんだようにふくれ上がって複線になっていた。」(思い出の記3 上西薫, 上西繁子著 渓水社 1986年)

 

「名物チンチン電車が左官町から民家軒先すれすれ曲がりくねった線路つづきで横川橋を渡り横川駅に走っていた」(ひろしまの今昔 広島市老人クラブ連合会1988年)

 

「昔は横川行きの電車通りだけであった裏の通りが、今は主要幹線道路の大通りとなり新横川橋に通じている。(純愛 泉清 栄光出版社1971年)

 

「横川線は単線で裏町ばかり走り、四カ所の待避線があり離合の場合の出這り(出入り)にはポールの離線やタブレットの交換をしたり、その上乗客の飛降等の危険防止にも注意を払う等、雨天の夜などは実に泣きたい思いでした」(1956年広電社内報)

路面電車と言えば、道路の真ん中を複線で走り、その両脇には車道もある「併用軌道」が一般的です。しかし、車道も含めた併用軌道を作るどころか複線分の用地確保すら困難で、敷石や舗装もない鉄道のような専用線路を敷くのが精一杯だったのがわかります。

”君はまだ十日市を知らない”のタイトルロゴが入った画像にあるような、広くてまっすぐな道路はありませんでした。

現在は、ほぼ真っすぐに伸びる幅の広い電車通りですが、昭和10年に都市計画街路として整備されるまでは、雲石街道以外に道らしい道がなかったので、立ち並ぶ建物を避けるようにくねくねと単線で開業するしかなかったのです。

最新廣島市街地圖:昭和2年5月5日発行 (国際日本文化研究センター所蔵)より一部抜粋

単線開業時の横川線の線路位置(内務省申請資料添付の図を参照してGooglemapに描画)

古地図でも、十日市~西九軒町~廣瀬神社~西ノ小路(現寺町)~別院前は、道路のない区間を走っていることがわかります。

現在の地図に線を書き込むと・・・

赤いラインが初期の横川線となります。

複線用地を確保することが困難なくらい十日市や横川が、街として成長していたということです。

 

私は廿日市市民ですが、廿日市の会社だと思っていたチチヤス株式会社も、広瀬町(現在の広島市中区榎町)で誕生していたのはびっくりしたなぁ。

 

十日市や横川の賑わいは芸備線の開通により、中国山地の木材などが舟運から鉄道輸送に変わったことなどで、少しずつ広島駅や紙屋町と八丁堀周辺に移っていきました。

次回へつづく

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中田裕一

宮島線歴史たずね人の中田裕一です。 広島電鉄宮島線の歴史や沿線地域の様々を書いた 「広電宮島線 もっと魅力発見!」(2024年南々社) と、被爆して壊滅した路面電車の復旧の真実を書いた 「だから路面電車は生き返った」(2025年南々社) の作者です。 元電車運転士であり、元路面電車を考える会会員です。 路面電車黎明期の歴史や地域公共交通の課題に取り組んでいます。
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